人はパンだけで生きるものではない。

ルカによる福音書4章4節

 イエスは、40日間、荒野でひとりで断食をして神様に祈りました。そのときに誘惑にあいました。それは、荒野の誘惑といわれるほど厳しいものでした。三つの誘惑でした。キリスト教の本質を否定するもの、それが悪魔であり、悪魔の誘惑と呼ばれていると解釈することができます。

 第一の誘惑は、「神の子なら石をパンになるように命じたらどうだ」でした。パンとは日本人なら、主食の米、ご飯のことをさします。生きる上でなくてはならぬものです。さらにパンとは人間の生活上必要とするものと理解することもできます。衣食住はもとより健康、職業、身体や頭脳に関することにも当てはめることができます。

 今日も、病気、災害、事故、さらに受験、昇進などが神社・仏閣の祈願の対象になっています。もし、二千年前に、そのような身近な人間の願いを、「石をパンに変えるように」、たちどころに奇跡を行って充足したとすれば、人々から大歓迎されたに違いありません。

しかし、イエスは、そのような方法でキリスト教を広めたり、そのように奇跡や御利益を与えることがキリスト教だとはしませんでした。

そして「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と同じ出来事を記したマタイによる福音書のほうには記されています。

 「パンだけで」と言いますから肉体のレベルのことを全く無視しているわけではないのですが人間にとって本当に生きるというのは言葉によるのだ、それも神の言葉による、と言うのです。 イエス・キリストは、愛と憐れみをもって、助けを必要とする人に神の言葉を伝え、神の癒しの力を使うかたです。

園長牧師 佐野真也